SHORT STORY

水面に漂う…

「物理の世界で言われるエントロピーという言葉は知っているかね」
白衣を着込んだ白髭の老人がそう切り出した。
「世の中は、まぁ、少なくとも我々が住むこの宇宙では、だね、全てが物質の生成から消失への方向・・・つまりは『消費』の方向へと流れていっているそうだよ。そう、物理学者達はこの現象を世界はエントロピー増大の過程の中に存在していると例えるそうだ」
薄暗く湿っぽい部屋は、灰色のコンクリートの中に塗り込められ、光も、空気も外界から全て遮断され、またその全てが人間の稚拙で欺瞞に満ちた技術によって代替されたモノによって、ワタシの体を重く取り巻いていた。
「彼らによるとだな、フン、信じられるかね、君、」
浅黒くその卑しさを刻みこんだ皮の奥に光る自分をも欺きつづけてきた目に、一方的な蔑みと自らが気付かぬ強烈な羨望の火を燃やして老人は捲くし立てる。
「いつか、そのエントロピーが増大し続け、その限界に達すると、この世界は全てが逆転して、エントロピー縮小の方向へと逆戻りしはじめるそうだ!」
わずか一瞬で消え去る人生と言う名の炎を、ごまかしと虚栄、模倣と裏切りのどす黒い油で燃やしつづけてきた人間達の代表が大きく腕を広げて見せる。さぁ、どうだ、お前もわたしと同じ様に思うだろう、考えるだろう、いや、お前が、わたしの半分も賢さを備えていればそう思うはずだ、そうでなければ、お前は 知恵の足りぬ愚民だ、何も知らぬ大馬鹿者だ!そうでもなければ・・・『異端』!
「割れた卵は元に戻り、盆からこぼれたミルクはコップに帰り、老人は若返り、若者は赤ん坊へ!何もない所から突然炎が立ち、周りの温度を下げながら元の黒い油になるとな!信じられぬ、しかしわしらが信じられぬと言うと彼らは決まってこう切りかえすのさ、「エントロピー増大の世界に住む私達には理解の及ぶ限りではない。全ては理論の上での話だ!フン、とんだサイエンス・フィクションじゃ、あまりに高等すぎてわしの頭じゃ理解しかねるわい」
人間とは不完全な造物だ。脆弱な入れ物に、殆どが眠ったまま死ぬまで起きない細胞を詰めた頭を戴き、自己防衛と自己保存といった動物的本能的欲求に支配された神経系統に、完全を求めて止まない心が縛られている。そして、その求める先は、外ではなく内、全ての人間には、彼らの最も深い所に「完全」と言われるもののおぼろげな姿が刻みこまれている。しかし、その深き場所は、動物としての人間であることにしがみついたまま表層に浮かんでいては、手を伸ばすにも及ばぬ孤独な深遠の底にある。ほとんどの人間が、その存在を知りつつ、何処かで後ろめたさを感じながらも、表層の動物の水面を漂っているが、ごく一部の人間は暗い深遠を覗きこむ勇気を奮い起こし、息をとめ、安寧に身を置く同胞を背にし、深きに潜る。ある者は息継ぎのため再び水面に帰り、ある者は息が続かず絶える。深遠に辿りついた者がいようとも、或は一瞬、或は帰らず、水面の大勢にとっては知るところではないはずだ。
「そう、彼らはこう言う、『天動説全盛の時代に地球が虚空に浮かぶ丸い土くれだと言って誰が信じた?誰が想像できた?そう、これも同じだ。」!それなら、わしはこう言おう、一万人の人間がいて、たった一人が真実を知っており、九千九百九十九人が誤った考え方をしていたとするなら、真実は一人に味方するが、九千九百九十九人が信じている以上、彼らの世界ではその誤りこそが真実なのじゃ!」
水面の外を動物の世界とするなら、その水面であがく姿こそ人間の姿、完全たり得ない不完全こそ人間の本質。ならば、完全となったら人は何になるのか?それこそが「神」か?物質の生成を理解出来ぬからといって造られた「創造神」ではなく、完全なる姿、完全なる存在としての『神』?水面の人間には理解出来ぬからこその存在?その存在からこそ理解出来ぬもの?
「ならば、九千九百九十九人のうちの一人として偽りを真実と崇めるか、唯一一人として真実を偽りとして誹られるか、しかないのじゃ。天動説は、後々歴史的に見れば偽りで、地動説が真実だと誰もが知っておるが、その当時の世界では地動説者は世迷言を呟く痴れ者に過ぎぬ、ということじゃ」
人たり得ぬものを求めつづける人、それが人間ならば、これほど不完全な存在はないだろう。
「そして、わしは、一人じゃ」
そして人々は水面に漂う。

そこは、治安も良く、経済もまあまあ発展している、とある国。役所に勤める役人も、日夜町に目を光らせる警察官も、家に帰ればただの一般人で政治とは遠くの騒ぎ、ただ自分よりもちょっと金をもった、ちょっとずるい人間達の茶番劇だと、誰もが思い込んでいる平和な国。そのとある町のとある建物、誰もそれが何の建物で、中に誰がいるのかなど、気にも止めない平凡な建物。そのとある地下室の一室。

「おい、またあの爺さんが騒いでいるぜ」
「あの爺さんには近づくなって聞いてるぜ」
「あの爺さん、何をしたんだ?」
「何でも、昔は恐ろしく頭のいい科学者だったらしいが、ちょっとキたらしい」
「キた?」
「ああ、もとが頭が良すぎたんで何をやらかすか分からないってんで、この老人ホームの特別室に一人で軟禁状態さ」
「それってヤバくないか?俺、聞いた事があるぜ。確か法律で監禁罪って・・・」
「バカか、お前?ここはあんまり有名じゃないが国の建物だぜ。そんなことないって」
「そ、そうか?」
「ただでさえ悪い頭で余計な事考えるんじゃねぇよ」
「・・・それもそうだな・・・」
「・・・」

静かに、思考に沈むワタシのすぐ側に、がなりたて不平を言い、強がり、不安がる老人がいる。水面で一生懸命息継ぎをし、醜く空気を貪ってきた老人がいる。
「わしの研究が世界に広まれば、全てが変わったのだ。世の労働者は全てが開放され、町は車の排気ガスで汚されることなど無くなり・・・」
「生きる」といったくだらない目的のために、また、「生きる」だけでなく自分の欲求を満たすために、何でもやってきた老人。 それらのために他人も、妻も、子供すら騙し、偽り、欺き続けた老人。いや、自分さえも・・・。
「世界が変わるのを恐れた者達の浅はかな保身のせいで・・・」
ワタシは、沈んでいく。

(終わり)

← BACK TO ARTIFACTS