HYPER REAL
真その中になきゆえに真に立たず
「新約聖書ーヨハネ伝八章四四節」
彼は今朝もまた、夢を見た。空を滑空する夢だ。ビルや木々にぶつかりそうなくらいの低空を、まるでへリコプターのように滑空していた。
しかし滑空していたのは、ヘリコプターやグライダーのような機械ではなく、彼の肉体だけだった。さまざまな街や山の上を凄まじい速度で、いつ終わるともなく飛び続けた。
落下する、という不安はなぜか無かった。それどころか、どこまでも邁進できるという底抜けに力強い確信に似た、沸き上がるような気持ちで満たされていた。
アジアの東端、太平洋上に、JU(Japan Union)という国ができ、かなり時が経つ。言うまでもなく、20世紀末に崩壊した日本国がその母体となった。
かつて、東京湾と呼ばれていた入江を埋め立ててできた島が、その国の首都だ。島の名前をフリーゾーンと呼ぶ。この島の名の由来を語るには事のおこりを振り替える必要がある。
そもそもこの国に崩壊の一撃目を与えたのはアラブの少数テロリストグループだった。
旧ソ連の核ミサイル工場の技術員からたったの数千ルーブルでーこれは、彼ら技術員の数年分の給料と同額だったー買い取られてしまった数発のICBMを、彼らテロリストは 人口100万人以上の主要都市へ向けて発射した。ロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨーク、ワシントン、ロスアンゼルス、モスクワ、北京、東京・・・。
各国の反応は迅速だった。犯人たちの犯行声明が発表される数分前には既に、巡行ミサイルを打ち上げ、自爆させることでこれに対応しており、発射されたほとんどの核弾頭はその爆発のエネルギーを大気圏外に放射した。あわや、というところで核戦争は免れたわけだが、すべてのエネルギーが地球の外側に向けられたわけではなかった。
地表に向けておびただしい量の電磁パルスが降り注ぐこととなった。電磁パルスは爆発の真下にあった電線や回路を流れた。スタンドアローンだろうと、オンラインだろうと、絶縁されていないシステムはこの被害を被った。そして、どの国でもほとんどのシステムは絶縁されていなかった。
事は被害者を続出させただけではなく、各国の経済基盤をもむしりとってしまった。テレビ、電話、ラジオ、コンピュータネットワークなどのコミニュケーションメディアは寸断され、アクセスできるところからは、まるでそこだけ渡ることができない大海の中の小島のように孤立していた。交通管制システムも麻痺し、路上は手の付けられない大渋滞が各地で発生、鉄道も突然停止するものやらぶつかってしまうものもあった。
上空では、電磁パルスを浴びた瞬間にエンジンが停止した飛行機も少なくなかったし、空港の管制塔も全く機能しなくなり、大勢の乗客や荷物を載せたまま、墜落する飛行機が後を絶たなかった。金融システムなども、顧客情報から経営内容まで、バックアップデータも含めた情報の8割がたが消失してしまった。
そもそもバックアップデータは電力供給がカットされるまでは動作する物が大半だが、電力がカットされたという情報を拾って来るよりも早く、EMPがその情報が格納されてあるRAMを溶かしてしまった。このような被害を被っていても、警察や消防局、保険会社は全く太刀打ちできないでいた。
彼らも、被害者になっていたからだ。
結局、現状復帰するまでは、新聞や手紙などが情報の伝搬手段となり、移動は公共バスや2輪車などが利用され、銀行口座の取引が、地方の被害を免れた銀行に殺到し た。復帰するまでの間、国によっては数年も、このような手段で回避するほかなかった。しかし、それでもまだ救われている方だった。
東京ではEMPー当時の人々は「機械風邪」と呼んだそうだーの次にくる災害が、時を同じくして発生していた。数年も前から心配されていた大地震が関東で発生していたのだ。発生時間や震源地の特定も、もはや不可能だったが、おおよそ「機械風邪」発生から数時間後の昼過ぎ、震度は7を記録した。地震対策は万全を期していた筈の超高層ビルや、首都高速は軒並み崩れ落ちた。
また、巨大な津波が証言によると数十メートルの高さに及んだというー川崎市、品川区、江東区等の沿岸部を直撃、沿岸部一帯は完全に水没してしまった。内陸部でも乾燥した気候だったため、各地で大火災が発生、電話回線はショートしていたため、緊急連絡さえ取れない始末だった。
結果、あらゆる救出作業も、消火作業も、避難場所の確保も、救急医療体制の実施も、マスコミの緊急レポートも、対策本部の設置も、自衛隊の緊急出動も、海外への援助要請もなされぬまま、死体と焼け野原だけが増え続けた。と言うよりもその時点で、日本国政府は既に、事実上崩壊していた。結果的な被害報告は出されていなかったが、死傷者、行方不明者の数―そのふたつは、だいたいだぶっている―は数十万人とも、数百万人とも言われた。
それから日本国がJ.Uとして復興するまでのあいだ、災害難民は地方都市へ脱出するか、廃墟での生活を強いられたわけだが無法状態ではその悲惨な状況は、どちらもそれほど差のあるものではなかった。法や行政が機能しない以上、国連の支援が必要となっていたが、近隣諸国とて自国の復興に手一杯だった。結局、国連がおっとり刀で駆けつけてきた半年の後には、もはや、一から国を作り直さねばならなかった。
首都東京も首都としての機能が果たせる状況ではなかったが、かといってほかの地方都市も、地震の被害こそ被っていなかったものの状況として東京と大差なかった。そこで、復興のための事業が実行された。東京湾の中央に人工島を建設し、そこを首都とするというものだった。
当時、川崎市と木更津市を結ぶ東京湾横断道路があったが、木更津市から4.4km地点に木更津人工島というちっぽけな島があった。フリーゾーンはそこを拡大したもので、今では敷地面積100kmにも及ぶ巨大な水上都市となった。この事業に乗り出したのは国連と国連の要請を引きうけた各国の事業家達だったわけだが、埋め立てがほぼ終了し国連が事業から手を引き、完全に事業家連中の手中に移った頃から首都復興は勝手気ままに進み出していた。
事業家たちも自国の復興のための搾取にあえいでいたため、国連からの話は「渡りに船」といったところで、税金逃れのよい隠れ蓑となっていた。彼らはそこを自分たちの箱庭にしていたのだ。もちろん、国際都市としての復興は難を極めたにもかかわらず、奇蹟的に可能となったわけだが、選出された首脳や公共団体は、おおかた彼ら事業家たちの息のかかったものたちで構成されていた。
復興を目指して埋め立てられた島には、できあげの国会、強化プラスティックの雑居ビル、超高層ビルの建設現場、機材置場、そして国内外を問わず、かき集められた労働者を収容する強化プレハブのアパートが 建ち並んだ。さらに、これらの労働者へサービスを提供する、飲み屋、売春宿、カジノ、ディスコ、アーケードやキャバレーが、プラスティックでできた安ピカのネックレスのように街を囲んで点在した。税関なども全く存在しなかったため、海外からの仕事を求めた移民流入も止められるところではなかった。そのため、たとえ廃れていた街でも存在しなかったはずの銃やドラッグが、公共カジノでさばかれるかたちとなった。
そして、それら不正行為を世界一悪どい警察組織が、見て見ぬふりをしながら取り仕切っていた。企業家がこれら全てを、高いところから見て管理していた。何でもありの地帯、つまり、フリーゾーン。この街は、このようにして成り立っていった。 それから半世紀も時は経過した。島の景色は荒涼とした埋め立て地から、一転して 天を突く様な超高層ビルの大森林となった。様々な企業体が、この島に間借りするようになった。様々な国の人々が移り住むようになった。
しかし、行われていることは今も昔も変わりなく、不正取引は公の場でもおこなわれ、金持ちには金持ちのための娯楽が提供され、それよりも下の労働階級には、未だに安ピカの商売が営まれていた。そのような2軍のサービス業には時として、非合法まがいの寄生者や、パフォーマーが在籍していた。マイケル・イシイも、そんなパフォーマーの一人にすぎなかった。
===NCNNニュース速報===
本日午前8時ごろ、フリーゾーン西区3丁目の交差点で、運行中の無人バスが爆発、炎上し、付近を走行中のトラックや自動車に衝突した。 乗っていた乗客2名が死亡したほか、1名が負傷した。警察署の調べでは焼けたバスの中から発火装置らしきものが発見され、爆弾テロの可能性もあると見て捜査を続けている。
===NCNNニュース速報・終===
マイケルは、名前からも想像できるとおり、黒人と日本人のハーフだった。「石井」という名は、母親からもらったものだが、「マイケル」がどの様な父親だったかは、彼は知らずに生きていた。母親も余りその話には触れたがらなかった。20歳だった。
彼は、今朝見た夢がどのような風景だったのか、もう忘れていた。しかし、あの雰囲気、どうにも気にくわなかった。あの、体の中から沸き上がるような楽天的な気持ち。ばかか、おれは?どんな状況だったらあんな夢が見れるってんだ?彼にとって楽しい夢を見ることは、むしろ悪夢を見るよりも、うんざりとさせるものだった。彼を取り巻く今の状況は、彼が体験したことの無い程最悪だった。
彼は、フリーゾーンの北端にある<WA VEFORM>という大きめのクラブで週2回、DJを務めていた。一日2時間ほどプレイを楽しんでいた。<WAVEFORM>は、フリーゾーンでは珍しい前世紀末に流行っていたクラブミュージックー主にテクノだーをかけるクラブとしてもてはやされていた。
マイケルのハードコアを信条としたプレイはわりとうけていた。18になったときにニューロ・ドライヴァ(Neuro Driver:神経剛化)の埋め込み手術を施されたが、DJのプレイにそのテクノロジーを使うことは、彼の信念に反していた。
彼は、何十年も前のテクニクス社製アナログレコードプレーヤーとミキサーを愛用していた。ニューロ・ドライヴァ接続のミュージック・チップやミキサーでは、まろやかで底の太い音は出せなかったからだ。そこが唯一の彼の武器となっていた。しかし、最近ではニューロ・ドライヴァの聴覚神経に直接ミュージックを転送する「ワイアリング・ダンス」が脚光を浴びていた。オーディエンスは首の根本のコネクターに無線受信機を取りつける―まるで、豆電池をはりつけるー感じだ。受信機はDJからの信号を受信する仕組みだが、 実際、オーディエンスの脳に届く際にはフレーズに対してそれぞれ好みのアレンジが成される。自分の好きな曲に変換できるの だ。傍から見ると同じ曲を聞いているように見えても、個人はジャズを聞いているのか、ラップを聞いているのか分からない。
無線で飛ばすため、巨大なスピーカーも必要としなかった。薄暗く、静かなダンスフロアにうねうねと、人々が踊る。それが、ワイアリング・ダンスだ。<WAVEFO RM>の持ち主の支配人も、このシステムの導入には前向きな反応を示していた。
支配人の決断力も相当大きかったため、マイケルと意見の相違で衝突することがたびたびあった。そのことで二人はとても緊張した間柄となった。
「君がこのシステムに反対する理由が、私にはさっぱり理解できないんだが?」
「あんなの、ただのドラッグだぜ。ホモの連中がやることとどこが違うってんだ。」
「しかし、ドラッグよりは健全だし、インタラクティブさは客に自由を与える。君だってドラムループを鳴らすだけで、仕事が楽になるじゃないか。」
「冗談じゃねえ、機械のアレンジのどこが自由だってんだ。曲の持つメッセージが台無しじゃないか。だいたい、サウンドてのは体で聞くもんだぜ。クラブやディスコからソニック・ブーム抜いて、何を聞かせるってんだよ。静かなフロアで踊るなんて、狂気の沙汰だぜ。前々から言ってるが、意見はかわんねえ。反対だよ、俺は。」
「そう依怙地になるなよ。」
「主張だよ。これが意味をなさないなら俺は、ここにいる意味がない。」
最後の切り札だった。ここを追い出されると、ほかに雇ってくれるようなクラブはなかったからだ。しかし、あまりにも頼り無い切り札だった。にもかかわらず、彼はこの切り札に賭けてみた。ほかに賭けるものが、すがりつくものが、なかったからだ。
「でももう決めてしまったことなんだよ、マイク。ワイアリング・ダンスを導入することに決めたんだ。」
マイケルがうなじをたれて、沈黙が続いた。これが3日前の言い争いだった。
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===NCNNニュース速報===
本日発生した、フリーゾーン西区3丁目の交差点でのバス爆発について、警察署ではこれを<アンダーグラウンド・レジスタンス>によるテロ事件として断定。理由はこの件についての犯行声明が電送されたことから。犯行声明と指名手配の顔写真を一般公開した。
(<アンダーグラウンド・レジスタンス>の説明及び警察署の発表資料、1面に。)
===NCNNニュース速報・終===
<WAVEFORM>のダンス・ショーが始まった。ワイヤリング・ダンスだ。マイケルは壁にもたれてくつろいでいた。レーザー光線のシャワーを浴びながらうねうねと、瞬いては消えてゆく肉体の創り出す模様をみつめながら彼は、ニューロ・ドライヴァのAM文字放送の垂れ流しから芸術ライブラリーにチャンネルを切り換えた。網膜の裏側、睫毛の上に点灯していた文字 が消え、コンタクトレンズディスプレイに立体の、ムンクの「叫び」がまるで亡霊のように、その光景に重なった。幽体離脱だ な。マイケルは、ぼんやりとそう考えた。
10分前にセットしておいたアラームが聴覚神経にわずかに刺激を与えた。彼の出番の10分前なのだ。DJブースの隣にあるまるで、トイレのように狭い控室のドアを開けると、既に支配人がたった1つしかない椅子を占領していた。滅多に顔を出さない筈の支配人が居ることにマイケルは内心驚いたが、表情には出さず、相手の顔をみつめた。覚悟はできていたからだ。
「今日は、俺の好きにさせてくれ。」
言い出そうとする支配人を、マイケルは制止し先を続けた。
「なにも、言うな。分かったよ。うん、今日が最後だ。」
その言葉を聞いて支配人は、納得したように一回頷くと、席を立った。二人の間にあった緊張は、翼を広げて飛び去った。
代わって、マイケルの心に、クローム色の翼を持ったブラックバードが舞い降りてきたのを、彼自身が感じとった。ブラックバードの翼や瞳は彼の意志同様にギラギラに研ぎ澄まされており、彼のミックスプレイを待っていた。DJブースに入るとワイアリング・ダンサー用にプレイしていたラモイが最後の曲にミックスし終わったところだった。
「よう、アナログ。てめえの出番なんか必要ねえぜ。」
アナログとは、マイケルの様にアナログ版をプレイする者のことを言う。ラモイはニューロ・ドライヴァ接続のDJで、マイケルのことを小馬鹿にしていた。しかし、 マイケルは、落ちつき払ってうけかえした。
「うせろ、ミニモノ。てめえのプレイにゃ、だれも踊れねえんだよ。」
その言葉にラモイが反応し、歯を剥いて飛び掛かろうとした。馬鹿め、自分を抑える知恵さえない。だからミニモノ(Minimum Monotonist:単細胞)なんて呼ばれるんだよ。飛び掛かろうとしたラモイは、しかし、自分の出番が終わったことは理解していた様で、首根っ子から延びたコントロールケーブルを引き抜き、その場をマイケルに引き渡してDJブースを後にした。
さあ、ブラックバード、お前の出番だ。嬉しい事に支配人はまだ、スピーカーを取り外していなかった。彼は1曲目を掛ける前に重低音の効いたオーケストラドラムを、サンプラーから鳴らした。ズーン。それまで無音だったフロアに不気 味な波動が響いた。ワイアーどもめ、やっ てやろうじゃないか。リズムを作りながら立て続けに鳴らした。ズーン。ズーン。ズーン。防音されているDJブースから、踊りを止めてこちらを睨む人間がいるのが伺えた。ワイアリング・ダンサーだ。聴覚神経に直結されているアレンジャーからでなく空気を伝って、オリジナルの音が彼らに直接伝っているからだ。フロアとの間にあるDJブースの硝子もリズミカルにピリピリと震えている。オーケストラドラムのリズムをシーケンサーで自動演奏させながら、マイクからオーディエンスにアナウンスした。
「来店中のお客様に申し上げます。受信機を接続してお楽しみ中の方は、これから数時間、受信機を取り外してお楽しみください。」
野次が飛んだ。なにかが防音硝子にあたった。グラスを投げたのだろう。シーンの移り変わりは激しい。数週間前まではこんな事はーもちろんアナウンスをする必要さえーなかったのだ。しかし、マイケルには勝算は見えていた。
フロアはもちろん、今となっては彼の人気ではなく、ワイアリング・ダンスのおかげで、だがーすし詰めの超満員、ラモイの前座で和んでいる状態、とくれば、例え彼のプレイを拒否していたとしても、熱気が、ムードが、感受性の強い外骨格みたいなものを形作る。それが観衆を弱くすることを、マイケルは知っていた。どのタイミングでどこに触れればいいか、ちゃんと知っていた。大昔のシンセサイザーをボリュームを絞ってそこに被せる。キューーーーー。
ゆっくり、ゆっくり、ボリュームを上げてゆき、代わりにオーケストラドラムの低音部をゆっくり、ゆっくり、抜いてゆく。この、焦らす長さがポイントで、長すぎでも 短くてもいけない。シンセサイザーの音で耳が張り裂けそうになった頃、爆発音と共に、テンポの速い一曲目にチェンジした。蓄積されたフラストレーションが決壊した堤防の様に一気に開放されてゆくのをマイケルは、聴衆から掴み取った。こうなれば彼のものだ。後は何をかけてもオーディエンスは乗ってくるからだ。
結局、マイケルがその日請け負った2時間、みっちりとオーディエンスに汗をかかせた。ストレスを発散させた後に出る、清々しい汗だ。熱狂のフロアを背にDJブースを後にした彼は、しかし、自分自身のウェーヴは終わったと確信した。音の質、テクノロジー、フロアの内装、特殊効果、やって来る客。全てが半年前の面影さ残らないほど、変化していた。半年前はまだ、彼のやっていたアナログなDJスタイルは肉感的で新鮮だった。<WAVEFORM>に拾われたのもそのころで、彼もとても輝 いていた。
初めてミキサーやアナログプレーヤーに触れたのもちょうど<WAVEFORM>に来る前だった。彼の家の近くに住んでいた老人が、ただのストリートキッドだった彼にDJテクニックを教えてくれ、それまで何の取り柄もなかった彼の人生にDJという生き方を分け与えてくれた。DJとしての先生でもあり、マイケルの数少ない親友でもあった。<WAVEFORM>を追い出され行く当てを失ったマイケルは、くじけそうになるのをこらえ、ありったけの強気を振り絞って再び恩師の元へ戻ることにした。
騒音のクラブを出ると、陽はとっくに沈み、さらに雨が降っていた。マイケルが傘もささずに歩きだしたクラブの前の通りは、車両の入ってこれない遊歩道となって いて、人込みでごったがえしていた。路上には中国系のバイヤーやらディーラーと物見高な通行人が、無愛想な無関心と気まぐれな好奇心の危ういバランスを保った怪しげなごった煮となっていた。ちょっと頭を上げると複雑に交差した幾重もの立体遊歩道やら車道やらモノレール、その下や横に精一杯存在をアピールする毒々しいCM看板が眩しい。言い争う声、ぼそぼそと呟く声、ヒステリックな車のクラクション、パトカーのサイレン。
「ふざけるんじゃないよ!このゲス野郎!」
「いや、だからさぁ、もうちょっと待ってくんないかなぁこの前の借金」
「おいボブ、このじじい、俺の受持ち区で何やってたと思う?カード賭博だぜ。信じられるか?まったく、この街を汚しやがって!おまえみたいな悪人はとっとと留置 場に行きやがれ!」
最後のは、袖の下を払う余裕のないおいぼれた小柄な黒人を、ポリスがいたぶっている声だ。なかには禁制の品物を売り歩く声もある。そっと近づいてはこそこそと話し掛け、当たりが無いならそっとはなれてゆく。
「なぁにいちゃん、LCあるよ。ためしてみんか?」
リミット・クリアライザー。違法なニューロ・ドライヴァの快楽中枢リミッター切断チップだ。たいていはインチキ詐欺だが、いずれにしてもポリスに見つかれば袋叩きのいたい目にあい留置場送りだ。帰り道はどの通りも混んでいたし絶え間無い喧騒と悪臭、悪意に満ち溢れていたが、ポリスがいつも以上目につくようになってから、意識下の緊急ランプが点滅し、集中力が急速に高まった。
マイケルは、フリージーンの端っこにへばりつく住人の例に漏れず、ぼろアパートー地上30階、地下14階だがこの辺では低い方だの一室を借りて母親と二人で住んでいた。アパートの入口は裏路地にあり、建物の裏側の廃れた倉庫に彼の恩師は住み着いていた。
物陰からの争う音を聞いたのは、マイケルがアパートの入口を通り抜けようとした時だった。よくあることなのであまり気にしていなかったが、女性の悲鳴がそれに加わったので現場を覗いて見ることにした。入口の横に袋小路の駐車場がある。昼間でも建物の影になって陽が差さない場所で、人の出入りもほとんどなかった。
物音はその方向から聞こえた。こっそりとアパートの影から駐車場を覗くと、男女二人がつきあたりの壁に追い込まれて、切れかかった街灯に照らされていた。男の方は既に胸や腹部に銃弾を受け、血溜まりの中に倒れてぴくりとも動かない。壁には何年もの間に描かれた落書きで、元がどんな色だったか想像もできないが、その落書きの上にー男のものだろうースプレーで吹きつけたように血がべっとりと付着していた。しかし、マイケルは追い込んだ方の集団を見て驚いた。アーミーだ。しかも肩に「首脳直轄」のワッペンを付けた特殊部隊だ。その特殊部隊が数人で、この男女二人を追い込んでいたのだ。特殊部隊は皆、手にアサルトライフルを持っていた。そのような人目に付くことの滅多にない、特殊部隊の狙撃現場を目の当たりに、マイケルは見てはいけないものを見てしまった様な恐怖にかられた。
ただ、女性の方は、どこか見覚えがあった。勿論彼の知人ではない。どこかのメディアで見た覚えがあった。あれはたしか・・・。 記憶の糸をたぐろうとしたとき特 殊部隊の一人が、マイケルが覗いていることに気付いてこちらに振り返った。咄嗟に身を隠したとき、アパートの壁に銃声は無かったがーパシッ、パシッ、と銃弾が当たり、コンクリートの破片が吹き飛んだ。銃を持ったアーミーが一人、こちらに近づいてきたので物音を立てずに、焦る自分を落ち着かせながらアパートに帰ることにした。見つかることを恐れて非常階段を使ったが、四階にある彼の部屋はとても遠くにあるように感じられた。
ドアの鍵を開けようとして、どれだけ自分が焦っているのかよくわかった。鍵束から、部屋の鍵が見つからないのだ。無いはずはない、そう思いながら探していると、通路のつきあたりにあるエレベータが一階から上がって来ているのが目に止まった。再び先程の恐怖が蘇った。目撃者を潰しにきたのか?
部屋の鍵が見つかったが、なかなか鍵穴に入らない。エレベータは普段では考えられない様な速さで、二階から三階へ上がってきた。いや マイケルが焦っているため、エレベータの速度を速く感じてしまっているのだ。
やっと鍵が鍵穴に収まった。狂ったように鍵を回した頃、エレベータが四階に到着し、チーン、という音と共にゆっくりとゲートが開き出した。泣き出しそうになりながらドアを開けたとき、部屋の奥にある窓の外にアーミーの攻撃ヘリが浮かんでるのが目に入り、彼の度胆を抜いた。 窓枠いっぱいに、パイロットの表情さえも伺えるほど間近にヘリがホバリングして浮かんでいた。鎌首をもたげた蛇の様にこちらをじっとにらんでいるのだ。振り向くとエレベータから出てきた一人の老人が叫んでいた。
「マイク、逃げろ!逃げるんだ!」
バシュッ、というこもった音がヘリのほうから聞こえた。振り替えるとヘリから発射され煙を吹き出しながら、真っ直ぐこちらに飛んでくるロケットが見えた。ロケットは窓ガラスを突き破り狭い部屋の中で壁に当たってしまったが、横っ飛びに逃げたマイケルを、爆風で軽々と数メートルも吹き飛ばした。薄れゆく意識の中で、彼の恩師がぶつぶつと呟きながら自分の体を引きずって運んでくれているのを感じとった。