星屑たちの合奏団オーケストラ 01

梅雨のあとさき

1. 予感

 まだ春の名残を微かに残した風が吹いている。
 夏美は教室のベランダ側の窓の縁に腰掛けて外の空気を吸っていた。
 校庭と校舎の境目の役割を果たしている桜の樹はもう花も散って薄緑の若葉をまとっている。
 いい天気だなと何となく思って夏美は空を仰いだ。五月晴れ。そんな言葉が浮かぶ。
 一際、涼やかな風が夏美の頬を撫でた。風と一緒に後ろから声がする。
「なーつみ!何、惚けてんのよ?」
 元気の塊の様な声だ。夏美は振り向いた。
 そこに元気を擬人化したような顔があった。
「真子か。いつも元気だね」
「あったりまえよ。女の子は元気が一番よ」
「どうしたのよ?何か夏美、元気ないよ」
「そんなことないよ。文学少女夏美ちゃんとしてはこの梅雨の前のさわやかな風を楽しんでる所」
「ぶんがくしょうじょー?夏美が?」
 夏美は少し眉を寄せてみせる。
「真子は私を誤解している」
「そう?理解しているつもりだけど。ボーイッシュで活動的でスポーツ大好き少女」
「それが誤解なのよー。私は一見そう見えるけれど実は繊細で詩的感覚あふれるおしとやかな女の子なのよ」
 真子は窓の外に目を移す。
「緑が少しずつ濃くなるね」
 夏美は軽く真子の胸倉をつかむ。
「ねぇ、熊本城のお掘りの水はきっと気持ちいいよー。どう、泳いでみる?」
「あははは・・・いやー、水泳ってさ得意じゃないんだ」
 真子の笑いは少し引きつっている。
「不得意は直さなきゃね。うん」
「あ、いや、ほら・・・うん、なんだかこう、夏美がすっごくおしとやかに見えて きたなぁー・・・とか・・・思えてきたり ははは・・・」
「分かればいいのよ。分かれば」
 夏美は真子の胸倉から手を放した。
 真子は夏美に背を向けて小声で呟いた。
「どこのおしとやかな娘が人を脅迫するっていうのよ・・・」
「ん?何か言った?」
 真子は激しく首を振る。
「ううん。何も言ってないよ。夏美の気のせい。樹の精ドリアード
 夏美の目はまた、窓の外に移る。
「ねえ、風がさ、トパーズ色に見えない?」
 夏美の言葉に真子は窓の外を見る。
「うーん、わかんないなぁ。風の色なんて考えたこともないよ」
 夏美は窓の縁にひょいと腰掛けて真子を見ながら髪を右手でかきあげた。風が夏美の髪をゆらしている。真子はそれを奇麗だと思った。
「真子はさ、いつも元気に跳び回ってるから、周りが見えないんだね」
「そう?夏美だって元気じゃない」
 夏美は首を振った。
「私のはね、ただ、そう見えるだけ。本当はどっちかって言うと内省的なのよ」
 そう言った夏美の顔は確かに少し「おしとやかな女の子」に見えた。

 5時限目の終了を知らせる鐘が鳴った。数学の担当の坂井という眼鏡をかけた教師が授業の終了を告げて去った。
 教室は何かいつもと違ったざわめきがたちこめている。夏美は別に気にもとめず帰り支度を始めた。
 夏美が教科書を鞄に入れてしまわないうちに担任が入って来た。青春兄貴と陰で言われている日焼けした水田というさわやかな教師だ。夏美は森田健作を思わせるその風貌と雰囲気が好きだった。しかし今日はいつもの元気さが見えない。水田は教壇に立つと教室をぐるりと見渡した。
「あー今日、斎藤さんが原因不明の事故で死亡した。詳しいことは分からない。明日、お葬式がある。我々も全員出席するのでそのつもりで。ホーム・ルームを終わります」
 そう言うと、水田は教室のざわめきをあとに足早に出て行った。
(はぁ・・・斎藤さんが、しんだんだ・・・)
 夏美は妙に無感動にそんなことを思っていた。
 死んだという斎藤詩緒とはつきあいもなかったし、クラスの中でも目立たない存在だったので、たいしてショックもなかった。
 何しろ口を利いたこともなかったので、何か感情をもてといっても無理なことだ。ただ少し、この年で死ぬなんて可哀相という思いが胸をかすめはした。
「ねぇ、斎藤さん、どうして死んだか知ってる?」
 夏美が、鞄を持って立ち上がった所でうわさ好きのクラスメート松本が話しかけてきた。夏美は無神経だなと思いながらも首を振った。
「ううん、知らない。どうかしたの?」
 夏美の問いに松本は嬉しそうにしゃべりだした。
「あのね、それがね、猛獣に襲われたのかも知れないって」
 とんでもない話の展開に夏美は目を丸くした。
「あ?猛獣?」
 松本はうなずく。
「そう。猛獣。なんでかって言うとね、あのこ、竜田山で死んでたんだけどね、死体がね、なにか鋭いもので引き裂かれたうえに、食われたあとがあったんですって」
 夏美は眉を寄せる。
「食われてた?」
「そう、おなかの辺りがこう、破られててね内蔵が一部、ないんだって」
 夏美は状況を想像して気持が悪くなってきた。
「気持ち悪い・・・そんな話、どこで聞いたの?」
「さっき、職員室で先生たちが話してたのよ」
「ふーん・・・かわいそうね・・・」
 そういって廊下側の窓から見える竜田山を眺めた。竜田山は気のせいかいつもより暗い森に見えた。

 夕方6時。夏美は居候先の阿瑞おみず邸でニュースを見ていた。斎藤詩諸の事はなかなか出て来なかった。6時半頃になってやっとほんの少しニュースが流れた。若い女のキャスターが事務的に事実だけを伝えている。
 それによって夏美は詩諸が死んだのは昨日の夜中らしいこと、詩諸がなぜそこにそんな時間にいたのかは分からないこと、警察は動物に襲われたという線で動きだしたことなどを知った。
 それにしても人の命は儚い物だと思う。つい昨日、夏美は教室で詩諸を見たのだ。それが今はもういない。しかもそのことがその周り以外では騒がれる訳でもない。しかし、よく考えてみれば、毎日、誰か死んでいるはずだ。いつもはそれが知らない人だから何も感じないだけの話だ。人の命が地球より重いとは誰が言った言葉だろう?今の夏美にはその言葉が空しく感じられた。大体こんなことを考えている夏美にしろ、1週間後にはもう、詩諸の事など思い ださないに違いない。
 夏美が少し暗い気分でテレビを眺めていると後ろから、あったかい手が目を覆った。
「玲くんでしょお?判ってんだよ」
「ははは・・・ばれたか」
 夏美が後ろを向くとそこにはこの家の主でもあるいとこのあきらが笑っていた。
「だって、こんなことすんの、玲くんくらいだよ」
 玲は後ろ頭をかきながら笑った。
「うーん、そうかもね」
「ね、何か用でもあったの?」
「あ・・・いや、別に用ってほどじゃないけどさ、なつくん、なんか暗い雰囲気だったからさ、つい、ね。何かあったの?」
 玲のアーモンドのような目は優しげに笑っている。夏美はこの目が好きだ。
「うん、実はね、クラスの娘が死んだんだ」
「え?死んだ?」
 玲の目が驚きで一杯になる。
「そうなの。竜田山でね、原因不明の事故死。猛獣に襲われたかもしれないって」
「それって、もしかして、あれかな・・・」
「え?」
「ちょっと待ってて」
 玲はそういうとリビングを出て行った。そして1分くらいで戻って来ると地方新聞の夕刊を夏美に見せた。ページの4分の1くらいを割いて詩諸の事が載っている。夏美はそれを見てうなずいた。
「そう、これだよ。わたしのクラスの娘」
 その記事の中の写真の詩諸は楽しそうに笑っていた。夏美は少し暗そうな表情の詩諸しか知らなかったので少し意外だった。
「この記事だけじゃ詳しいこと、わかんないけど・・・」
 玲が憂鬱そうに言葉を濁す。
「なに?」
「瑠璃香さんがL・O・Gじゃないかって」
「L・O・G?」
 L・O・Gは秘密結社だ。秘密結社というのが非現実的だというのなら宗教と言ってもいい。大体、秘密結社が非現実的だという見解は正しくない。現にKKKやフリーメーソンなどは既にその存在や内部構造のほんの一部などは“秘密”ではなく実際に存在を確認されている。大体、秘密結社等というものはその名のとおり秘密であるべきであるから世間に知られた秘密結社などそうそうあるはずがない。いきおい、秘密結社というものは存在を子供番組の中だけと思われがちだ。しかし、案外、現実というものは油断できないものなのだ。
 ともかく、秘密結社L・O・Gはエリート主義を標榜する魔術結社だ。人類の数を最終的には今の10分の1まで減らし、エリートのみの国家の運営を目指している。 L・O・Gは玲たちにとって宿敵だ。以前、玲たちが彼らの行動を結果的に邪魔する事になってしまった事から、L・O・Gは頼みもしないのにちょっかいをかけてくる。
「瑠璃香さんの話じゃ竜田山に人を襲う獣がいるなんて考えられないしそれに腹を裂くという手口がL・O・Gの”儀式”っぽいって」
 夏美は憂鬱そうにためいきをついた。
「L・O・Gがまた動いているの?」
「まだ、確かじゃないけどね。もし、そうなら、またえらいことになる」
 玲はソファーに身を沈めた。夏美も背もたれにもたれかかり天井を見上げた。
 テレビからはバラエティ番組の陽気なオープニングが流れている。
「違うよね。L・O・Gなんて・・・あいつら、この前、壊滅寸前まで追い込んだじゃない」
「寸前・・・と壊滅!は違うからねぇ・・・」
 玲は浮かない顔でうつむく。
「はぁ・・・・・・普通の高校生になりたい」
 夏美がこれ以上はないというほどいやそうな表情で力なく呟いた。

 瑠璃香は竜田山にいた。もう、日も暮れて辺りは薄暗い。ソアラのドアを閉めて、車を降りた。 長い髪が風に揺れる。玲の目を鋭くしたような吊り目は辺りを油断なく見回している。
 瑠璃香は玲と夏美の従姉にあたる。未成年だけの玲たちの生活を世話するために一緒に住んでいる。彼女は少しでも玲たちに危害が加わる危険性がある場合は速やかにその原因をとりのぞくことが自分の使命だと思っている。空手と薩摩示現流の剣の使い手で玲たちを守るためには他人の事はどうでもいいと思っている。玲たちにとっては頼もしい人だがそれ意外の人からは恐ろしい人だ。
 今回は新聞で気になる記事があったので、その現場を見に来たところだ。その記事というのは詩諸の事件の記事だ。
 竜田山はそれほど高い山でもないし人も住んでいる。こんな所に猛獣というのが引っ掛かる。もし、猛獣でないとすれば・・・つまり、人間の仕業だとすれば尋常な人間のする事ではない。そして、それはまさかとは思うが、L・O・Gの仕業かもしれないという可能性を示す。彼らは尋常な人達ではない。そして、その可能性が少しでもある以上、彼女としても調べない訳にはいかない。
 死体のあった辺りにはまだ警察がいると思われた。瑠璃香は死体の発見場所だと思われる方向に少し歩いてみる。数分歩いた所で先に人の気配が感じられた。数人の人間がいるようだ。
(あの辺か・・・やっぱり、警察がいるな)
 現場と思われる場所は遊歩道から離れた草むらの中だ。がさがさと人の動く音がしている。
 瑠璃香はそっと人の気配と逆方向に歩き出した。
(ともかく、現場の雰囲気はつかめた。しかし・・・)
 現場は確かに人があまり入らない所だ。しかし、殺人を人がたくさん通る所でする奴もそういないだろう。
(・・・どっちにしろ確定はできない・・・)
 瑠璃香は溜め息をついた。これ以上、この辺りをうろつく訳にもいくまい。警察に捕まると面倒なことになる。瑠璃香はキーを回した。ソアラは静かに走り出した。
 阿瑞家の夕飯は基本的に麗美がつくることになっている。今日は麗美特製のカレーだ。にんにくと玉葱をたっぷり炒めてまろやかさを出して、鳥賊や帆立、アサリ、海老等のシーフードと馬鈴、人参、マッシュルーム、そして牛肉をじっくり煮込んである具いっぱいのカレーだ。それに阿蘇の知り合いの牧場主に分けてもらっているヨーグルトにキウイとオレンジをいれたものと、グリーンサラダを添えてある。
 玲はそれを見て歓声をあげた。さっきの憂鬱などどこかへ行ってしまったようだ。
「姉さんのカレーは世界一だからな」
 夏美もその横に座ってにこにことしている。
「ねぇ、 麗美さん、今度、私に作り方教えて」
 麗美は笑ってうなずいた。
「いいわよ。ほかにも色々、教えたげる。 夏美ちゃんがお嫁さんになってもこまんないようにね」
「あはは・・・だれかもらってくれるかなあ」
 夏美が髪をかきあげながら笑うのを玲が笑いながら見ている。
「大丈夫だよ。なつくんなら。それにしても、みんなどうしたんだろう」
 玲はリビングの入り口のドアを見る。人が入って来る気配はない。阿瑞家には現在、6人が住んでいる。玲と麗美の姉弟とその従姉妹の瑠璃香と夏美、それに玲のフィアンセの咲耶とその姉の弥生だ。夏美と咲耶と弥生は鹿児島に実家があるが高校は熊本の高校に通っているのでこの阿瑞家に居候をしている。
「そういえば遅いわね。いつもならもう帰って来てるのにね」
 麗美がそう言ったとき、リビングのドアが開いた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって」
 威勢よく弥生が飛び込んでくる。その後ろから咲耶が静かに歩いてくる。
「ごめんなさい。ちょっと、姉さんが・・・」
「咲耶!!」
 弥生がにらむと咲耶は首をすくめた。二人の間で何か目で会話をしているようだ。
「ま、弥生やっくん咲耶さくもほら座って」
 二人の目の言葉のない言い争いをさりげなく止めに入った。二人はそれぞれ席についたがまだ弥生は向かいの席の咲耶をにらんでいる。
「みんなそろったことだし、カレー、食べよ」
 玲のとりなしに弥生の表情は少し和らいだ。
「ん」
 弥生はカレーに目を落とした。
「あ。今日は麗美スペシャルだ」
 弥生の機嫌は直ったようだ。顔が少しほころんでいる。
「あー、じゃ、食べよ。いただきます」
 玲がきちんと手を合わせていってスプーンを取った。
「いただきます」
 全員がそれにならう。
「あ!おいしい!」
「うん。いつもおいしいけど今日のは特別」
「ふっふっふっ。今日のは煮込みが違うんだ」
 食べながら口々にとりとめのない事をしゃべりあう。やがて、話は少しずつまとまりを見せ始める。
「ねえ、やっくん、劇のほうはどうなったの?」
「え?今度のやつ?」
「うん」
「まあ、うまくいってるかな」
 弥生はうれしそうに笑った。
「なにをやるんだっけ?」
「『夢を売る店』。夏美の後輩の作品よ。 玲くん、シナリオ読まなかったっけ?」
「シナリオは読んでないけど、小説は読んだ。確か、4ページくらいの短い話だったね?」
「そう“少女”と“少年”と“男の子”と“老女”の4人しか登場人物がいないからね私たちにはちょうどいいの」
「そっか、やっくんの部って7人しかいないから・・・」
「苦労すんのよ。なにしろまだ同好会扱いだから学校からの援助も少ないし、演劇部は私たちを裏切り者扱いして邪魔するし、今回の上演だってやっと10分だけ、それも演劇部の上演の前座よ。腹立つったら」
 弥生は眉を吊り上げて力説する。夏美が笑いながら弥生に言う。
「弥生、あんたに惚れてる生徒会長がいたじゃない。ほら、「愛と誠」の岩清水くんみたいな」
「ああ。あの人。「愛と誠」なんて夏ったら古いわねー。あの人がどうかしたの?」
「だから、あの人をたぶらかして上演時間を増やしてもらうとかさ」
 弥生は苦笑をみせる。
「やだよぉ。だってさ、そんなことしたら会長、私につきまといそうだもん」
「『君のためなら死ねる』とかいって?」
「あ、言いそう!」
 弥生と夏美は笑い転げる。咲耶も吹きだしそうになっている。玲たちは会長のことは知らないけれど笑う。和やかな雰囲気に越した事はない。そう玲は思っていたし、実際彼女らの話を面白いとも思っていた。
 食事の後、玲はこの前、買い替えたばかりのパソコンをいじっていた。PC-9801RSという型だ。値段の割りに性能がいいと玲はこのパソコンを気に入っていた。
「あー、以上の様に蘇我氏は仏教の浸透をそしてそれによる地位の向上を、一方、物部氏は神道の地位の擁護とそれによる自らの地位の保全を賭けて闘ったことになる・・・っと」
 どうやら、玲は所属する歴史研究会の会報の為の原稿を書いているらしい。98の横には沢山の分厚い資料が載せられている。
 玲が大きく一つ、深呼吸をしてモニターから目を離したときにノックの音がした。
「はい?」
 玲は首を曲げてドアを見る。
「あ、 玲くん・・・ちょっと、いい?」
 ドアの外の声は夏美のようだ。
「ああ、開いてるよ」
 玲がいうとドアがあいて、夏美が入って来た。パジャマ姿で、目にかかるくらいまで伸びてきた前髪をバンダナであげている。
「ごめんね。夜におしかけてきて」
 夏美は床に置いてあるクッションに座る。柔らかいクッションで体が沈み込みそうになる。
「どしたの?あ、98のこと?」
 夏美は玲の使い古しの98VMをもらって、今、一太郎というワープロソフトに挑戦中だ。まだ、始めて一週間と経たないので分からない事だらけだ。それで分からない事があるたびに玲の所に聞きに来るのだ。
「あ、今日は違うの」
「ちょっと待ってね」
 玲はそう言うとキーボードを叩いた。ディスクドライブがカチャカチャと動き始める。やがて、ディスクの音が止まると玲は98の電源を切って椅子をくるりと夏美の方に向けた。
「ごめん。えーと、一太郎の事だっけ?」
 玲が言うと夏美は右目をかきながら言った。
「あー・・・そうじゃないの。今日のニュースであった事件の事だけど」
「ああ・・・なつくんのクラスメートの・・・」
 玲の言葉に夏美はうなずく。
「そう。斎藤さんのこと」
 玲は親指の爪をかみながら、夏美の目を見た。夏美の目は少しおびえて少しいらだっているようだ。
「あの娘・・・やっぱり、L・O・Gがやったのかな?」
 玲は前髪をかきあげて、髪を上げたまま手を止めた。
「うーん、分からないとしか言いようがないね。なにしろ、データが少なすぎる。ただ・・・」
「ただ?」
「ただ、言えることはなにか、いやな物が動きまわってるってことだよ」
 夏美は眉をひそめた。
「いやな物?魔物・・・とかあやかしの類い?」
 玲は目を閉じて溜め息をつく。
「たぶんね・・・」
「人間じゃないの?それとも野生化した猛獣とか・・・」
 玲はゆっくりと首を振る。
「考えにくいね。尋常な人間にしては異常すぎる殺し方だし、猛獣にしても竜田山にいるとは考えにくい。もし、人間だとしてもL・O・Gかそれとも他の狂った集団か・・・どっちにしろ、まっとうな人間よりもあやかしに近い奴らの仕業だと思う。それに・・・感じるんだ。なんか嫌な感じ。前の咲耶の時みたいな・・・」
 夏美は口許に右手を当てて考え込んでいる。玲の言うことを正しいとは思いながらも違って欲しい。だから違う何かそんな物とは関係ない説得力ある可能性を必死で探している。玲もそれは分かっているが、こんな所で気休めを言っても仕方が無いと思い夏美が自分で冷静な判断を下すのを待っている。
 数分、静寂が玲の部屋を支配した。玲はじっと夏美を見ている。夏美は眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
「玲くん・・・やっぱり、それが一番近いみたい・・・」
「うん。考えたくはないけど、僕はそれが一番、妥当な考えだと思う」
 玲の口調はきっぱりとしていて、聞く者を納得させる響きがある。夏美はうなずいて溜め息をついた。
「やだなぁ・・・」
 重苦しい空気が漂う。
「まあ、仕方がない。落ち込んでも始まらないさ」
 玲は重苦しい空気をはねのけようと明るい口調できっぱりと言った。夏美も玲にうなずく。夏美の顔にはもう、微笑みが少し戻っている。
「じゃ、気分変えて音楽でも聞こうか?」
 玲は本棚の横に置いてあるCDボックスからCDを取りだした。コンポにセットして再生のボタンを押す。スピーカーから歓声が聞こえ音楽が鳴り始める。何かのライブ盤だ。夏美はなんとなく、落ち着く気がした。玲はそれを見て安心したように微笑んだ。

 一方、こちらは瑠璃香の部屋。そっけない程にきちんとかたずいた部屋にベッドとタンスそして本棚が配置してあり、小さなガラステーブルが一つ部屋の中央に置いてある。女の部屋としては飾り気のない部屋だ。
「竜田山、どうでした?」
 麗美は床に直接座って、ベッドに座った瑠璃香を見上げている。
「そうね・・・ほとんど、何も分からなかったわ。警察がたくさんいて、“気”も入り雑じってて何が何だか分からないくらいに乱れてたし」
 瑠璃香は気を感じたり操ったりする訓練を受けていた。だから、残留した気を“見る”ことによってそこに何が居たか等ということはある程度分かる。しかし、それも人が頻繁に出入りする所では気が乱れてしまって全く分からなくなる。
「そうですか・・・」
 麗美は呟くように言って俯いた。
「ともかく、続けて調査するから、あなたたちも身の回りに気をつけて」
「・・・はい」
「そう、そう。他のみんなにも注意するように言っとかなくっちゃね。明日の朝にでも」
「そうですね。できればいらない心労をかけたくはないけど・・・」
「迂闊な事をしてたら危ないわ。いくら用心しても用心したりないわ」
 瑠璃香の毅然とした言葉で麗美は心が引き締まる思いがした。そうだ。あの夏の、あの恐ろしい夏のような命を懸けた時間がまた、訪れかけているかもしれないのだ。いくら心配しても心配しすぎる事はないかもしれない。
 目を上げた麗美の目は、既に勁い光が宿っていた。

 夜の冷たい空気が辺りを包んでいる。まだ、5月の末。夜は冷える。加えて、土の細い道の両側に林が広がり、空気が冷ややかになるのに手を貸している。
 その、細い道を一人の女が走っていた。細いしなやかそうな髪は耳を隠す程度の長さで切りそろえられている。普段ならさらさらとしたきれいな髪なのだろうが、今は走ることによって振り乱されている。どうもジョギングという雰囲気ではなかった。なにより、パジャマ姿で走っているのが異様だ。
 “彼女”はまだ幼さが残る顔だちをしている。いって、高校生といったところだろうか。“彼女”はしきりに後ろを気にしながら必死に走っている。息はもう上がりかけて限界が近いようだ。それでも、“彼女”は必死で走り続けている。
 そして、“彼女”の後ろから、誰かが追ってくる。何か、はっきりしない影だ。闇に溶けるようなそこに何かがいるのは分かるのだがはっきりは見えない。
 “影”は少女とじわじわ距離を縮めながら走っている。余裕の見える走り方だ。まるで、狩を楽しんでいるかのように、少しづつ、少しづつ、距離を縮めている。
 やがて“彼女”は足をもつれさせて転んだ。そして、起き上がると同時に後ろをちらっと見て、硬直した。“彼女”の視界一杯に“影”の姿が広がっている。
 “影”は“彼女”の腕をつかみ、パジャマの上着の肩の部分を引き裂いた。鎖骨の部分があらわになって、白い肌が夜の闇の中で浮かぶように見える。
 はっきりとは聞き取れない、くぐもった声がした。それは人間が出した声とは思われなかった。言葉の様だったが、少なくとも日本語ではない。
 “彼女”は悲鳴をあげた。それは“彼女”がこの世で最後に発した声だった。

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